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世界中の本好きのために

古賀史健

Profile

1973年、福岡県生まれ。 1998年に出版社勤務を経てライター/編集者として独立。一般誌、ビジネス誌、ムック等のライターを経て現在は書籍のライティング・編集を中心に活動中。 インタビュー集に『16歳の教科書』『40歳の教科書』(講談社)などがあり、その他、『ゼロ』(堀江貴文著。ダイヤモンド社)など構成・編集協力として携わった書籍が80冊超。 著書に『20歳の自分に受けさせたい文章講義』(星海社新書)、『嫌われる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教え』(共著。ダイヤモンド社)がある。

Book Information

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面白さを共有できる喜び



ライター、編集者の古賀史健さん。話し手との臨場感やリズム感が伝わる原稿で、数々の本を世に送り出してきました。岸見一郎先生との共著『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)は、版を重ね日本のみならず海外にも届けられています。書く事で「面白さを共有したい」という古賀さんに、本との関わり、ライターの魅力など、現状と抱える課題まで今の想いを伺ってきました。

“卒論”で伝える喜びを知った小学生


――『嫌われる勇気』が、様々な場所で評価されています。


古賀史健氏: 哲学者・岸見一郎先生との共著であるこの本は、おかげさまで21刷、累計58万部となりました。台湾版と韓国版も好評のようで、アドラーの思想が少しずつ広がっていることを実感します。刊行時に掲げていた理想からするとまだまだ通過点ではありますが、今後自分がどんな本をどうつくっていけばいいのか、大きな指標となった気がしています。

――なにげに手に取った一冊から始まったと聞いています。


古賀史健氏: 1999年の冬、当時20代の〝青年〟だったぼくは、池袋の書店で岸見一郎先生の『アドラー心理学入門』と出逢うことができました。平易なことばで語られる、どこまでも深淵で、世間の常識を根底から覆すような思想。それまでフロイト派やユング派の言説にどこか引っかかりを感じていた自分は、大きな衝撃を受けました。いったいアルフレッド・アドラーとは何者なのか。どうして自分はこれまで彼の存在を知らなかったのか。アドラー関連の書籍を片っ端から買い漁り、夢中になって読み込む中で、ある事実に気がつきました。

ぼくが求めていたのは、単なる「アドラー心理学」ではなく、岸見一郎というひとりの哲学者のフィルターを通して浮かび上がってくる、いわば「岸見アドラー学」だったのだ、と。「いつか岸見先生と一緒にアドラー心理学(岸見アドラー学)の決定版といえるような本をつくりたい」と願うようになり、幾人もの編集者に声をかけながら、その機会を待ちわびていました。そしてようやく京都に住む岸見先生との面会を果たしたのが、2010年の3月。『アドラー心理学入門』を読んでから10年以上が過ぎたときのことでした。このとき、岸見先生が語った「ソクラテスの思想はプラトンによって書き残されました。わたしはアドラーにとってのプラトンになりたいのです」という言葉に、思わず「では、ぼくは岸見先生のプラトンになります」と答えたことが、この本のはじまりになります。

――多くの本との出会いの中で、「書いて伝える」仕事が古賀さんのライフワークとなりました。


古賀史健氏: その節目節目には様々な本との関わりがありました。ぼくと本との関係は、幼稚園に入る前、隣に住んでいたおばちゃんに読み聞かせをしてもらっていたところから始まります。最初は絵本を読んでもらっていたのですが、楽しくてしようがありませんでした。どんどんせがむものですから、ついには読んでもらうものがなくなってしまいました。そこで、次にお願いしたのが自宅の本棚にあった百科事典。「あ行」から終わりまで片っ端から読み上げてもらっていました(笑)。全くリンクしてない情報が、どんどん入ってくる快感は今でも覚えています。小学校に上がる頃には、自ら本屋さんに通うようになっていました。父が仕事の関係で、図書券をよくもらってきており「マンガ以外の本だったら、なんでも買っていい。ただし『こち亀』はOK」というわが家のルールがありました。

――『こち亀』は、優良図書だったのですね(笑)。


古賀史健氏:がきデカ』はダメだとか、よくわからない線引きでしたけれど(笑)。それから映画も好きで、よく従兄弟のお兄ちゃんに連れていってもらって、小学生が観ないような少し難しい映画も観ていました。その映画の面白さをクラスメートと共有するには、当時はレンタルビデオもなかったので、テレビで放映されるのを待つしかない。どうにかして、知った楽しみを早く伝えたいという想いが強くなっていきました。

――「知る」楽しみから「伝える」喜びを覚えたのは。


古賀史健氏: 小学校5~6年生の時の担任がすごく変わった先生で、「テーマはなんでもいいから、一年間をかけて、レポート用紙50枚の“卒論”を書きなさい」という課題を出してくれました。みんなは江戸時代の歴史などをテーマにしていましたが、ぼくは映画で感じた感情や面白さをみんなと共有したいと思い、小説を書きました。その時書いたのは「スター・ウォーズ ジェダイの復讐」と「猿の惑星」などを混ぜたようなSFモノだったのでした。朗読しながら、目の前にいるクラスのみんなが、手に汗握りながら聞いてくれている感じが、ひしひしと伝わってきました。僕が笑ってほしいと思うところで笑ってくれましたし、読み終わった後にはスタンディングオベーションです(笑)。

絶対に言い訳ができないもので表現したい


――そこで書く醍醐味を味わったのですね。


古賀史健氏: 「小説を書くのって、すごく楽しいな」というのを実感した強烈な原体験となりました。しかしまだその時は、文章で伝えるという明確な想いはなく、映画が好きな事から監督になりたいと思っていました。けれども脚本の作り方や、監督になる方法もわからなかったので、自分がいつか作るであろう映画のポスターを必死で描いていました(笑)。自分の頭の中にあるストーリーや構成を描きだし、そこにタイトルとキャッチコピーをつけて、ポスターのようなビジュアルにして教室に飾ったりしていました。周りからは「お前、何やってるの?」と言われていましたね(笑)。

――表現方法を模索していたのでしょうか。


古賀史健氏: 当時は、絵コンテの切り方が存在することすら知らなかったので、小説にするかポスターにするしか、アウトプットの手段がありませんでした。大濠高校時代はサッカーに集中しつつも「大学に入ってから、好きな映画をやろう」と決めていました。

――大学では、映像コースへ進まれます。


古賀史健氏: 「映画を作ることができる」という話を聞いて進みました。独学で自主製作の映画を撮っていました。「ぴあフィルムフェスティバル」などのコンテストに出せば、何かいいことが起こるだろうと漠然と考えていましたが、甘かったですね。満足出来るものが、なかなか作れない。監督の立場だと、カメラ担当や役者をやってくれる友達に、色々と指導しなければいけません。頑張ってくれている友達に対する遠慮もありましたし、自分の考えているものを伝えるとか、自分の中で見えている「画」をみんなで共有するための言葉を持ち合わせていませんでした。

――共有できないもどかしさを感じます。


古賀史健氏: アマチュアとはいえ、監督をやっていると「プロの役者を使っていれば」とか、「ちゃんとしたカメラマンを使っていれば」とか、色々な言い訳が出てきます。その言い訳をする自分が嫌で、「絶対に言い訳ができないジャンルって、なんだろう?」と考えたのが、一つの岐路でした。「自分の想いを表現できるのはなんだ、それは文章だ。もうそっちに進むしかない。」という結論に至りました。

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