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金出武雄

Profile

1945年生まれ、兵庫県出身。 京都大学電子工学科博士課程修了(工学博士)。同助教授を経て、80年にカーネギーメロン大学ロボット研究所高等研究員に。同研究所准教授、教授、所長を務め、現在に至る。 06年生活の質工学研究センターを設立、日本では01年に産業技術総合研究所デジタルヒューマン研究センターを設立。 専門はコンピュータビジョン、ロボット工学。自動運転車や自律ヘリコプター、アイビジョン、顔認識、仮想化現実、一人称ビジョンなどの世界的権威。 著書に『独創はひらめかない―「素人発想、玄人実行」の法則』(日本経済新聞出版社)など。

Book Information

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カーネギーメロン大学教授の金出武雄さん。ロボット工学の世界的権威で、数々の賞を受賞されてきました。金出さんが開発した、画像の動きの解析や顔の検出技術はMPEGや携帯カメラなどわれわれの日常で使われ、映像エフェクト技術(Eye Vision)は、NBAや欧州のサッカーなど様々なスポーツ中継にも導入されています。独創的な研究開発で得た経験論を記した著書の題名は、意外にも『独創はひらめかない』というもの。この本に込められた想いとは。35年ぶりに日本に戻って建てられた、武家屋敷に並ぶ平屋の邸宅にて、たっぷりと『金出論』を伺ってきました。

世界で活躍する競争心を育んだもの


――このほど、こちらに居を構えられたそうで。


金出武雄氏: 最初は5年という予定で渡ったアメリカも、気づけば35年。なんとなく「日本に帰ろうかな」と思い、故郷であるここ丹波に家を建てました。カーネギーメロン大学の職はそのままに日米を往復する生活をしています。35年前、米国行きを強く希望した私に、最初は反対された指導教授の坂井先生は、「そこまで言うなら、コンピューターサイエンスという新しい分野で、日本人がどこまでやれるかやってこい。ただし、日本人であるということを武器に使って勝負したらいかん」と言われて送り出されました。昨日のことの様です

――「日本人であることを武器に使う」とは。


金出武雄氏: アメリカでは「日本の会社との仲をとりもってあげるよ」とか、日本では「アメリカの最新情報をおくるよ」、とかで自分の価値を作るようでは良くない、ということです。80年代は我が国が元気な時で、アメリカには「日本に学べ」という風潮があった時代でしたからパイプ役に価値があったのですね。当時日本はペブルビーチまで買ってみんなに嫌がられていたけれど、今それをやっているのは、かつての日本のような元気さをもつ中国です。

――現在は若い人たちの海外志向も少なくなったと聞きます。


金出武雄氏: 研究者だと外国に留学制度があります。昔は選抜試験をするほど人気でしたが、それが今ではあまり人気がないらしい。大企業の海外駐在なども「行きたくない」という声も多いと聞きます。

けれどもそれは、昔の日本人が抱いていた「負けるまい」という外国コンプレックスがなくなった結果だとも言えます。そういった競争心が原動力になっていた時期は終わったのかも知れません。僕が生まれた頃は戦後の混乱もあり国全体としても貧乏でしたし、私の家は特にそうでした。「日本の外貨準備高、ドルがないので大変だ」という話を聞いて、ドルがないということは国として大変なことなんだと小学生の子ども心にも分かって、すごく心配したのを覚えていますよ。

――外貨準備高に、興味を持つ子どもだったんですね。


金出武雄氏: 「外貨準備高」というのは、国にとって大変に重要だと思っていました。内需という言葉は知らなかったけれど「外国のものを買うと、それだけ日本のドル準備高が減る」という概念はわかっていて「一に節約、二に国内消費を」という気持ちを強く持っていました。例えば釣り道具なども自分で作ったりしてね。子どもの時からそういうケチの経済観念が強かったように思います(笑)。国の経済状況に私の家の経済状況を重ねていたのかもしれません。「貧乏にはなるまい」という気持ちはすごく強かった。

――そこで競争心が育まれた。


金出武雄氏: はい、そのためにはよく勉強ができることが重要だと考えていました。自分で言うのも変だけど、子どもの頃はいわゆる「ティーチャーズ・ペット」でした。「ティーチャーズ・ペット」というのは、「学生に紛れたプロの記者が良くできて、ヒロインのジャーナリズムの先生のお気に入りになる」というラブストーリの映画でなんですが、僕も似たような所があったのでしょう。中学時代、放課後に僕が先生になって同級生に因数分解を教えていたりもしました。宿題まで出して、やって来ない奴には怒ったり(笑)。同窓会では当時の同級生に「お前のせいで、えらい目におうた」と良く言われます。恥ずかしい限りです(笑)。

上昇志向の雰囲気の中で


――先生の代理をするほど、勉強に意欲を持っていたんですね。


金出武雄氏: そんな私につきあってくれる仲間がいたのです。全体がそんな意欲を持った雰囲気に包まれていました。高校を卒業したのが昭和39年(1964年)オリンピックの年です。高度経済成長期まっただ中で、技術によって国を支えるんだという気概で、勉強のできる子は理学部、工学部などの「理系」を目指すという感じでした。当時、父親に変わって大黒柱的存在だった兄は「勉強するんだったら、東京よりやっぱり京都の方がいい」と言いました。

――そして、京大の工学部に進まれます。


金出武雄氏: 当時、京都大学には電気関係の学科が電子工学科、電気工学科、電気工学第二学科と3つあって、50人ずつで150人の定員。「原子力も花形でカッコいいな」と思った原子力工学科の定員は30人。競争率はどちらも同じで3倍足らず。「450人受けて150番以内に入らないことはないだろうが、90人集まって30番に入らない可能性はゼロではない」という僕の素人統計理論によって、電気を受けることにしました(笑)。もっとも、このときは試験でえらい目に遭いました……。

―― どんな目に遭ったんでしょう(笑)。


金出武雄氏: それまでの私の試験の解き方は、数学でも理科でも、「問題の1番から順番に全部やる」というものでした。ところが入試直前に入学試験の心得なるものを読んだのです。「まず、易しい問題から順番に解くべき」と書いてあった。「今日は本番だからそれでいこう!」としたのが良くなかった(笑)。やり方を変えてしまったことで、調子が狂ってしまい数学はまったく出来ず、次の国語の時間もよく分かりませんでした。京大1本しか受験していなかったので、「これはダメ、浪人か。ウチにはお金もないし、とにかく大変なことになった」と心の中は諦めモードで、六甲山のハイキング道路をウロウロしていましたよ(笑)。

――ところがふたを開けてみたら…。


金出武雄氏: なぜかトップの成績だったようです。転機は理科の試験。これも調子が悪く残り30分なのに、まだ解けていない問題がたくさんありました。気が滅入って気分が悪くなったのか、トイレに行きました。すると戻ってから、すこぶる調子が良くなって問題を解くことが出来ました。その経験もあって「受験する時はトイレに行くといい。これが秘訣だ」とよく言っています(笑)。

首尾よく入った京大では大学院まで進みました。その後、助手をしていた頃、カーネギーメロン大学のアレン・ニューウェル教授と知り合い、一年間の客員を経てその後京大を辞職、渡米して35年間、今にいたる訳です。

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