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世界中の本好きのために

安冨歩

Profile

1963年、大阪府生まれ。 京都大学経済学部卒業後、住友銀行勤務を経て京都大学大学院経済学研究科修士課程修了。博士(経済学)。京都大学人文科学研究所助手、名古屋大学情報文化学部助教授等を経て、現職。『「満洲国」の金融』(創文社)で第40回日経・経済図書文化賞受賞。その他、近著に『ドラッカーと論語』(東洋経済新報社)、『誰が星の王子さまを殺したのか』『ジャパン・イズ・バック―安倍政権にみる近代日本「立場主義」の矛盾』(明石書店)、『「学歴エリート」は暴走する ―「東大話法」が蝕む日本人の魂』(講談社プラスアルファ新書)、『合理的な神秘主義―生きるための思想史』(青灯社)など。

Book Information

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コミュニケーションを生む本を発信したい



東京大学東洋文化研究所の教授である、経済学者の安冨歩先生。「情報の津波の中でコミュニケーションを生み出すツールが本」と話す先生の、本が好きでたまらなかった少年時代から、研究者に至るまでの歩みを、本にまつわる想いと共に伺ってきました。

とにかく本が大好きだった


――経済学をフィールドとして選ばれた理由とは。


安冨歩氏: 私は古代日本語を研究したかったのです。小学校で日本語の文法を習うでしょう。名詞、動詞、副詞とかね。でも今教えられている日本語の文法は、英文法をもとに無理矢理日本語に当てはめて作った文法だから全く理屈が成り立っていないんですよ。それで調べてみると、時枝誠記という東京大学の文法学者が時枝文法というものを唱えていて、その文法の解説を大野普先生が書かれていました。それが面白かったので、勉強したいと思ったんです。ところが、親父には「法学部に行って弁護士になれ」と言われていて…。京大に行きたかったので、文学部と法学部との間をとって経済学部に入ったんです。

――間を取って……(笑)。学者には小さい頃から?

安冨歩氏

安冨歩氏: そうですね、昔からずっと学者になりたいと思っていました。本を読むのが大好きだったので、その頃の気持ちは“本を読んで暮らせる仕事”っていう事ですかね(笑)。両親は、お小遣いはほとんどくれなかったけれど、本代だけはいくらでも出してくれましたので。
父親が校長でしたので、家庭と学校の文化が全く同じでした。行き場がないというか、逃げ場がなくて、本の中に逃げ込んだんですよね。本を読み出すと日が暮れるんです。お昼ご飯を食べて、本を読み出したら、ふと気が付くともう晩ご飯。

もの書きになりたいと思ったのは中学生のときです。小説家になりたいと思っていました。日本では、文字の世界に逃げ込んでしまえばエリートになれるし、いい学校に入れる。そのかわりリアリティに対する感覚を失う。だから私は方向音痴だし、車はすぐぶつけるし、身体感覚がおかしい。人との対話がうまくいかない。そのかわり、文字空間に関しては、身体感覚があります。本を読めば、それが他の本との間でどういう位置づけになっているのか、読んだ後に考えるわけではなく、感覚としてわかるんです。例えば、二人の思想家の本を読んだら、二人の思想家の関係がどうなっているのか考える必要はないという感じです。

――大学卒業後は、銀行に進まれていますね。


安冨歩氏: 理論的な事に興味があって、数理化されたマルクス経済学やケインズ経済学を研究していたのですが、突如気が変わって住友銀行に就職しちゃったんです。就職したのは円高の直前で、研修の間に日本円が二倍に値上がりしました。研修中に円ドルを売り買いするゲームをさせられましたが、ドルを買っていた人はほとんど破綻しましたね(笑)。

銀行には二年半しか勤めませんでしたが、その間に不動産融資をしまくってバブルを起こしました(笑)。何が起きたかというと、1000万円の土地を担保にお金を貸す時には800万円ぐらい価値をみるわけですね。その7がけでお金を貸す。1000万円を担保に560万円以下を貸すことになっていました。ところがこの担保が急に値上がりするわけです。銀行の教科書では、「急に値上がりした時は、急に下がることもあるので、かために見なさい」となっています。

ところが、実際に銀行で起きていた事は、1000万円の土地が2000万円に値上がりした時に、評価が2000万円になっていた。なぜ七掛けにしないかというと、さらなる値上がり分を見込んで評価するようになったんです。それに、今までは貸さなかったようなちょっとヤバイ人にも、どんどん融資するようになりました。そんな現場に身を投じたら、頭がおかしくなってくる(笑)。それで、二年半で嫌になって辞めました。でも、バブルの本番は私が辞めてからでしたね。

――それで、大学に戻られた。


安冨歩氏: ええ。京大の大学院に入ってすぐでしたが、北京大学に遊びに行って学生たちと一緒にデモをしたりしていました。天津から瀋陽・長春とわたって、ハルピンに行った晩に天安門事件が起きました。私はその日にハルピンの学生による抗議デモに参加していたんです。そこから命からがら日本に逃げ帰りました。でも、天安門事件の前後に人々が見せたエネルギーや開放感は、私にとって呪縛から解放されようとする「人間の美しさ」という強烈な印象を残しました。

それに比べてバブルで踊っている日本人は完全に醜く、おかしく見えたんです。そうして天安門広場の虐殺のあと、中国人がバブルに狂った日本人たちを凌ぐような勢いで醜くなっていくプロセスを見たわけです。それで、「あれは一体なんだったんだ。解明したい」と思いました。それで、私が最初に研究しようと決めたテーマが、満洲事変以降の日本の社会の様相でした。

――なぜ、「満洲事変以降」に着眼したのですか。


安冨歩氏: 一番わかりやすいからです。1930年にロンドン軍縮会議があって、アメリカ大統領とイギリス首相と日本首相が、ラジオネットワークを使って世界に平和を訴える演説をしました。日本の戦前の議会制民主主義の最も輝かしい瞬間といっていいでしょう。そこから次の年の9月にはもう満洲事変。14年後には原爆を落とされているんです。

大正デモクラシーからロンドン軍縮会議の後のピークをこのまま延ばせば、日本はどういう国になったのか。当時は国際連盟の常任理事国ですごく信頼されて、ヨーロッパ内の様々な問題に対応する事を期待されていたんです。ヨーロッパの外にいる日本は、仲介者として重宝されていました。そのポジションのまま30年代を進んだとしたら、ナチスドイツとイギリスの戦争を回避させる事もできたかもしれない。そういう日本があり得たんです。

――しかし、実際には……。


安冨歩氏: 全く逆方向。バブルも同じで、世界が日本に要求していた事は、日本がアジアの成長センターとなって金融や技術やマネージメントを高度化させていく機能を担うことでした。その期待が、あの円高だったんです。日本は、その円高を利用して中国やインドや東南アジアとの戦時期の加害についての問題を解決した上で、大胆に投資すべきだったんです。

――今も昔も、世界の期待を裏切ってしまったと。


安冨歩氏: 戦前、東洋経済新聞の社長だった石橋湛山は、1920年代に一貫して植民地を放棄しろと言っていました。1923年のワシントン会議前夜に「一切を捨つる覚悟」という非常に有名な論文を書いて、「日本は台湾も朝鮮も中国における権利もすべて捨てて、そういう抑圧された人民の代表としてワシントン会議に臨むべきだ」と述べている。1923年にそうした主張をする事は、先見の明がないとできない事です。

大学院に戻り、石橋湛山の主張を知ってショックを受けました。あの時代、財界にも太いパイプを持っているジャーナリストがこういう事を言っているのに、なぜなんの影響も与える事が出来なかったのかと(笑)。人は往々にして、正しい意見を鼻先であざ笑い踏みにじって地獄に向かって転がり落ちていく。最終的にわかった事は、とにかく騙されない事。他人が信じている虚構を信じると、その虚構がどんどん現実になって、虚構に向かって対応するようになるんです。

「問題は存在しない」と思い、問題でないものを問題だと思い込む。チャンスを問題だと思って解決しようとし台無しにしてしまう。認識が狂うんですね。認識が狂っている状態の上に、権力や差別が生まれる。その権力や差別が人々の認識をさらに狂わせ、この悪循環が起きるんです。しかしこの悪循環が起きたとしても、人がサボれば大事には至りません。しかし、そこで頑張るから大変な事になる。間違った地図を持って全力疾走するわけです。そんなことをすれば、いずれどこかの崖から転がり落ちてしまいますよね。

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