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世界中の本好きのために

米津一成

Profile

1959年東京生まれ。「ツール・ド・おきなわ」本島一周サイクリング参加を機にロードレーサーによる長距離サイクリングに開眼。フランス発祥のロングライドイベント「ブルベ」で2006年に200km、300km、400km、600kmを走りSR(スーパーランドナー)の認定を受ける。2012年には代表を務めるWEB制作会社・有限会社青竜社を有限会社ペダルファーへと社名変更し、自転車関連活動を会社業務に加える。 著書に『追い風ライダー』(徳間書店)、『自転車で遠くへ行きたい。』『ロングライドに出かけよう』(河出書房新社)など。

Book Information

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生活や考え方も変わる、自転車の楽しさを伝えたい



99年に有限会社青竜社を設立、2012年には社名を有限会社ペダルファーに変更。42歳の時の「ツール・ド・おきなわ」本島一周サイクリング参加を機に、ロードレーサーによる長距離サイクリングに開眼。2006年にはフランス発祥のロングライドイベント「ブルベ」で200km、300km、400km、600kmを走り、SR(スーパーランドナー)の認定を受ける。年間走行距離約8000km。ロングライドを中心に自転車を楽しみ、会社までの約12kmの道のりをロードレーサーで通っていたことも。メンバー数30000人を超えるmixi「自転車で遠くへ行きたい」コミュニティの管理人で、オリジナルデザインのサイクリングジャージの制作も行っています。著書には大人気エッセイ『自転車で遠くへ行きたい。』のほか、『ロングライドに出かけよう』などがあり、新作の自転車小説『追い風ライダー』に関してはFacebookのページにて、サイドストーリーや執筆裏話なども公開されています。今回は人生を変えたという自転車との出会い、そして編集者でもある奥様との本の制作などについてお聞きしました。

独立することは、自分の中では決まっていた


――小さい頃から自転車がお好きだったのですか?


米津一成氏: 好きだったのですが、実は僕が自転車に乗れるようになったのは中学に入ってからなんです。父の友人の息子さんが自転車の交通事故で亡くなったことがあって、ずっと乗らせてもらえなかったんです。僕が子どもの頃は少年自転車ブームで本当に乗りたくてしょうがなかった。で、中学生になってやっと買ってもらえたんです。過保護というわけではなかったのですが、きっと危なっかしい子どもだったんでしょう。僕は長男で、親は期待して幼稚園から私立に入れていたので、電車に乗って通学していたのです。ですから近所には友達が全然いなくて、家に帰ってくると本を読んでいました。母も本好きで、本に関しては「これが欲しい」と言ったものは制限なく必ず買ってくれたので、今でも感謝しています。当時は、『十五少年漂流記』とか『ロビンソン・クルーソー』などを読んでいました。あとは、海外の少年少女ファンタジーものも好きでしたね。

――「将来は会社を経営したい」という夢を当時から持っていたのでしょうか?


米津一成氏: 父は横浜で自分の会社を経営していたのですが、父が独立したのを見ていたので、独立とは一大決心が必要なことだとは思っていませんでした。むしろ、タイミングがきたら自分で会社をやるということが、僕の中では普通だったのです。父が独立して設計事務所を始めたのは、僕が中学に上がったくらいだったでしょうか。「喝を入れよう」などという気持ちではなかったと思いますが、僕が会社に勤めて5、6年経った頃、「いつまでも人に使われていてもしょうがねぇだろ」と父に言われたことがあって、それが強烈でしたね。今でも覚えています。その時に僕の中で忘れかけていたものというか、「そうだったな」と思い出した感じもありました。

二輪車の衝撃


――中学、高校ではどのようなことに興味がありましたか?


米津一成氏: 中学、高校は進学校に行っていましたが、僕はあまり勉強していませんでした(笑)。オートバイが欲しかったので、学校では禁止されていたアルバイトを親に内緒でしたりしていました。自転車もオートバイでも同じなのですが、身に風を感じて走るといった二輪車の衝撃というのは、その頃から僕の中にずっとあるのです。でも、最終的にオートバイを買ったのはだいぶ後になりました。中学高校の時は、不良というわけではありませんでしたが、あまり学校が身に馴染まなかったというか、「ここじゃないな」といった感じが常にありました。小・中・高と周りは裕福な家の子が多かったのですが、アルバイトで知り合う子たちは、今までの友人の中には全くいないタイプの子たちで、僕の目には新鮮に映りました。当時だと、いわゆる暴走族のようなことをやっている子もいました。中学高校と男子校だったので、バイト先は女の子がいたということもあって楽しかったですね(笑)。でも途中でアルバイトのことが親にバレてしまいました。高校の後半くらいには学校にも仲間ができて、結構長く学校にいるようになりました。それまでは1番遅く学校に来て1番早く帰るような感じだったのですが、仲間ができてからは、下校時に当時大ブームだったつけ麺を食べに自由が丘のお店によく行っていましたね。

――大学時代はどのようにして過ごされていたのでしょうか?


米津一成氏: 青学だったのですが、ひたすらアルバイトをしていましたね。アルバイトは飲食や倉庫の作業など、ありとあらゆるものをしました。品川の倉庫で荷出しをしたこともありますし、大学生活の後半は、広告代理店で結構長くアルバイトとして企画書を手書きで清書する仕事をしていました。ワープロを使うようになったのは後半からですね。アルバイトしながら広告賞などにも応募したりもしました。就職した時はやりたいことがあったので、最初は全然違う仕事に就きましたが、後に広告業界に行きました。文章を書くのは全然苦にならなかったし、林真理子さんが出た後くらいだったので、コピーライターが職業として注目されていた時期でした。

「B to C」の時代がくるだろうという直感


――当時やりたかったこととは?


米津一成氏: 当時、僕はミスタードーナツのイラストも手掛けていた原田治さんのイラストを使ったキャラクター商品「オサムグッズ」が好きで、オサムグッズを作っている会社に入ろうと思いました。それで、メインは化粧品だけど、キャラクター商品をやっているその会社に入ったんです。最初の2年はキャラクター商品の商品開発をいきなりやらせてもらうことになって、後半の2年は化粧品の方の広告というか、総務部の宣伝担当のアシスタントのような仕事をしていました。女の子の身の回りのもの、文房具全般やバッグやガラスものとか、それからパンツなども作りました(笑)。下町の業者さんと直接やりとりをしていたので、いろいろなものの作り方をそこで学ぶことができました。今はまだ半分趣味の領域なのですが、オリジナルのサイクリングジャージを作っています。「これから縫うのなら、あと何日くらい掛かるよね」といったことが分かるのは、その頃の経験が今に活きていると思っています。

――どういったきっかけで広告会社への転職を決められたのでしょうか?

米津一成氏

米津一成氏: 広告代理店に勤めていた大学の先輩が、上司と2人で会社を起ち上げたばかりで、「うちにくるか?」と声をかけてくれたので転職しました。そこでは4年働きました。会社は営業個々人の売り上げの集合体といった形の仕事の仕方でした。父の言葉も僕の中にずっとあったので、「こうやっていくと、自分の客ができて独立ができるかな」と考えました。その後、その大学の先輩が更に独立をするというので、それにくっついていきました。それも転職して4年目だったので、周期的にはオリンピックみたいでしたね(笑)。

――99年にペダルファーの前身の青竜社を設立されましたね。どういう経緯だったのでしょうか?


米津一成氏: いわゆるインターネットの黎明期で、自分で開拓したお客さんが10社くらいあって、「10万でいい。いや、タダでもいいからホームページを作りましょう。これからはきっとどこの会社も作るはずです」という提案をしました。その当時は、ホームページを開設したことが経済欄の記事に載るくらいの時期でした。それ以前にも、ある企業の顧客向けのプライベートフォーラム(Nifty-Serve内)の運営を結構長くやっていたのもあって、B to Cの時代が来るんだなという直感もあったし、ネットが性にも合っていたのだと思います。そうした経験を通じて、インターネットを駆使してコミュニケーションをデザインするという仕事が、だんだん自分の中で明確になっていきました。その勢いで、青竜社を立ち上げたんです。インターネットが無ければ、今とはだいぶ違う人生を歩んでいたと思います。

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