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世界中の本好きのために

見田宗介

Profile

1937年東京都に生まれ。筆名、真木悠介。1956年、東京大学に入学し、1960年、同大学文学部社会学科卒業後、大学院に進学。1965年、同大学院社会学研究科博士課程を満期退学後、同大学教養学部で講師、助教授、教授を歴任し、多くの学生、研究者の指導にあたる。1998年に同大学を退官し、その後共立女子大学教授、東京大学名誉教授。 60年代から刊行されてきた多数の著作、また東大の超人気ゼミだった「見田ゼミ」を通し、現在活躍中の思想家、社会学者たちに多大な影響を与えてきた。社会科学的な分析の明晰さと詩的、直観的な対象把握や文体を結合させた独特の視点とスタイルは真木名義の著作等からも見ることができる。

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ヒーローの視点、悪役の視点


――見田さんご自身の読書についてもお伺いします。小さいころに読んで影響を受けた本はございますか?


見田宗介氏: 僕は1937年生まれですから、子どもの頃はまさに戦時下で、うちの本がほとんど戦災で焼けてしまいました。偶然焼け残った中に『シェイクスピア全集』というのがあったんです。坪内逍遥が訳した古いもので、仮名が振ってあるんですよ。シェイクスピアの作品は、本物とわかっているのが37編ぐらいあるんですけれども、そのうちの21ぐらいが家にあって、それしか本がないものだから、ずいぶん読みました。9歳、10歳ぐらいの時です。非常に深いところで影響を受けたと思います。子どもの時だからほとんど筋書きとか名前は忘れちゃったんですけれども、その雰囲気は覚えているんです。

1980年代ぐらいに僕が大人になってから、色々現代文芸批評のきらびやかなシェイクスピア解釈を読んで「ああ、僕のシェイクスピアの理解というのは本当に幼稚なものだったな」とわかったんです。だから、専門家が読む読み方ではなくて、ただ子どもとして面白いから読んだだけですね。

――シェイクスピアからどのようなインスピレーションを得たのでしょうか?


見田宗介氏: ほとんど覚えていないですけれども、結局シェイクスピアがなんで面白いかというと、主人公のヒーローだけじゃなくて、悪役とか脇役がたくさんいますね。その悪役とか脇役も全部いきいきとしているわけですよ。平凡な作家だったら主人公だけが立派で、悪役はただ悪いとか、脇役は適当に書いてある。でもシェイクスピアの作品では脇役も端役もそれなりの価値観を持って生きているわけですね。悪役からどう見えているかとかも書いてあるし、端役の人もなかなか哲学的なことを言ったりするんです。『ハムレット』に出てくる墓堀人とかも非常に深いことを言っているわけですね。

見田宗介氏

だから、人間というのはその人の性格とか立場によって世界の見え方が全然違う。1つの立場だけで物を見ちゃいけない、逆の立場から見ればそっちが正当になるんだな、という感覚みたいなものが、僕が影響を受けた点じゃないかと思うんです。「世界は舞台」というのは『お気に召すまま』の有名なせりふだけど、世界には色々な登場人物がいるわけですね。悪役と言われている人も、脇役も端役も、無名の民衆もいる。だけどそれぞれ精いっぱい生きているんですね。

「恐怖の肯定男」は社会をどう見る?



見田宗介氏: ずっと後になって、団塊の世代の人たちが学生だったころ、1970年ごろに大学闘争がありました。その時に僕は糾弾される方の教授会にいたんですけど、学生たちと激論を戦わせていく時に、その学生たちが冗談に色々といろんな人のあだ名を付けるわけです。僕に対してどういうあだ名が付いたかというと、「恐怖の肯定男」。つまり何でも肯定しちゃう。
あのころ学生の中にいろんなセクトがありましたよね、「何々派」だとか「何派」とか。で「お前はどうなんだ」という討論があるわけです。そうすると僕は、あの派がこういうのもわかる、それから教授会がこういうのもわかると、だいたい全部肯定しちゃうんです。それで「お前は恐怖の肯定男だ」と言われた。でもそれが僕の立場なんです。つまりその立場になって一生懸命考えるんです。いろんな派の人はみんなまじめに考えているわけ。糾弾される教授会は教授会でやっぱりちゃんと考えていて、ちゃんと秩序を守らなければめちゃめちゃになるということでやっているわけです。だからそれぞれの立場に正当性があるわけで、そこを踏まえて理解しないで、糾弾するだけでは何も議論にならないだろうと思っていたんです。

――ある立場からほかの考え方を持つ人を糾弾する方が、決然とした真摯な態度であると見られる傾向がありますね。


見田宗介氏: 僕が今でもよく言われるのが「お前は近代主義者なのか、反近代主義者なのか」ということなんですが、僕は近代も正しいと思うし、反近代も正しいと思うんですね。インドとかメキシコみたいな近代ではない文明もものすごく好きだし、もっと野性的な文明も好きだし、近代社会も好きだし現代社会も好きなんです。さっき言った若い諸君が想像力の振り幅を広げるということとかかわるのですが、色々なことをその立場に立って一度経験したり知ることが大事だと思いますね。「近代社会だけがいい」とか、「野性的な社会だけがいい」とか、「日本社会だけがいい」とか、「いやいや、インドが一番いい」とかではなくて、それぞれ一度は肯定した上で、どのように考えるかということがすごく大事だと思います。

例えば、丸山眞男という人がいるんですけれど、彼は一時神様みたいに尊敬されていて、その後全共闘に批判されて、吉本隆明なんかにも批判されて、それで今はもうほとんど読まれなくなった。僕もどっちかというと丸山さん的な近代思想、「西欧がいい」とか「近代がいい」というのには批判的な立場なんだけれど、でもやっぱり丸山眞男は読んでいると面白いんですよ。ちゃんとした思想家とか学者が書く本というのは、自分と立場が違っていても読みごたえがあるんですね。自分と立場が同じ小物よりも、自分と違っても本物を読むとそれなりに得るものがある。もちろん最終的に丸山眞男を批判することはいいんだけど、とりあえず尊敬して読んでみると、初めてよくわかるわけです。わかってみた上で乗り越えるのは大いにいいと思うんですが、最初から「あいつはもう古い」とかいうふうに読むと、ずいぶん損をすると思うんです。いったんはほれ込まないと本というのはわからない。本に対する思いというのはそういうことだと思うんです。もちろん人間に対してもそうですね。中東問題もそうだし、日中関係もそうです。一度仮に認めた上でないと相手を理解できないんです。理解した上で批判するのが本当の批判だと思っています。

電子と紙が共存共栄する「書籍の生態系」


――本、出版の世界では、紙の本と電子書籍が対立したものととらえられがちですが。

見田宗介氏

見田宗介氏: ありますね。僕は、電子化は非常にいいと思うし、かつ、増えてくるべきだと思いますが、「活字か電子メディアか」という二項対立ではなくて、並行して共存共栄の形を取るということだと思うんです。
例えば、1950年代に「これからはテレビの時代だから、もう新聞や印刷メディアはいらないんじゃないか」という議論がありました。新聞界や出版界なんかで非常に心配した人もいるわけですが、テレビを見て、翌日の新聞でもっと深くバックを知るとか、結局今になってみると役割分担があるわけで、それぞれ特性があるので棲み分けになるわけですね。
もう1つ言われていたことが、大相撲のテレビ中継が始まった時に非常に相撲界は心配して、「テレビで見ちゃったら誰も国技館に来なくなるんじゃないか」と心配したわけですけど、逆にテレビで放映されることによって、今まで相撲に関心を持っていなかった人も実物の相撲に関心を持って国技館にも来るということもありました。
今度はインターネットを含めて電子メディアに、逆にテレビ界が戦々恐々としている。でも地上波には地上波の役割があって、だから残っている。電子メディアは今よりもはるかにシェアを拡大すると思いますが、ではテレビメディアや印刷メディア、出版がゼロになるかというとそんなことはない。
書物には、物としての美しさがあるわけですよ。だから電子メディアで読んで、また書物でも読んでみたいとか、そういうことになると思うんですね。

――新しいメディアが、それまでのメディアを駆逐することはないということですね。


見田宗介氏: そうですね。ある森林なりの生態系の中に新しい生物が出てきて繁殖すると、ほかのものは駆逐されると思われるけれど、やがてエコロジカルな生態学的な均衡状態をもって整合するわけですね。だから大きく言うと活字メディアとテレビとか電波メディア、それからインターネットみたいな電子メディアのフィールドが確定されてきて、それで共存共栄していくんじゃないかというふうに思っています。

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